オスッ!おら悟空。

「HANA-BI」

2004年5月23日
北野武監督の「HANA-BI」を再び観た。
映画の内容は、過去を引きずる元刑事が病気で命がもういくばくも無い妻を必死な思いで見守るというものだ。

愚痴をこぼさず、不条理な現実とまっすぐに向き合って妻を見守る夫の姿は何度見ても胸が熱くなる。特にラストシーンで岸本加世子演じる妻が、「ごめんね。ありがとう。」と夫に一言告げる場面はなんとも言えない。

現代は、統計上2分と少しで1組の夫婦が離婚する時代だそうである。

出会って結婚することも奇跡かもしれないが、妻とこうやってけんかをしながらも一緒に過ごしていられる事もまた奇跡なのかもしれない。

私は、映画を観た後こう思った。
お金持ちでも、名誉のある人生で無くてもいい。
ただ一人の人に「ありがとう。」と言って貰える人生もありじゃないかと。
日亜化学と中村教授の間で青色発光ダイオード訴訟が繰り広げられている。東京地裁(知的財産分野では全国をカバー)での第1審判決では、「発明の対価」として中村教授の日亜化学に対する200億円の請求が認められた。
世間では、企業にとって厳しい判決であり産業界の混乱を招くと批判されていたりもする。

知的財産分野は、日本は未だ発展途上であるから、これから世界レベルで戦っていける力をつける必要性がある。
それには、法整備、法理論の構築が必要不可欠ではあろうが私にとってはそれよりももっと重要な背景がある気がする。

つまりは、日本の法曹は法理論・法解釈にこだわりすぎていて現実の危機を見失ってしまっているのではないかということである。
「青色発光ダイオード訴訟」は日本においては企業と開発者の「発明の対価」を争うリーディングケースに違いない。しかし、何故そういう問題が起きたか、その背景は何かに気づかなければならないと私は思う。

青色発光ダイオードは1種のレーザーである。軍事転用が可能なのである。中村教授は何故アメリカに行ったのか。裁判の費用をアメリカの会社が全額負担する意図は何なのか知る必要性があるのではないか。

大局的には、法曹が法理論・法解釈に奔走している内に国益を損ねるような技術が海外に流出する危機に気づいていないということはないだろうか。

海外、特にアメリカはそういうものに敏感である。
優秀な技術者がシリコンバレーや、海外に居場所を求めて流出していく理由も日本が技術の保護や開発に鈍感であるからではないだろうか。

法理論・法解釈の重要性を否定するわけではないが、現実の問題の重要性と背景を考えなければいくら”法”を駆使しても日本が知的財産権で世界をリードする日は来ないだろう。

受験数学

2004年5月21日
私は、大学受験を控える高3生の塾の講師のアルバイトをしている。

よく生徒から「数学嫌いなんだけどどうすればいい?」とか「数学ってなんの役に立つの?」と聞かれる。
前者の質問に対しては、「数学の教師やってるけど俺も嫌いだから大丈夫。無理して好きにならなくていいんじゃない。」と半分冗談で答える。後者の質問に対しては、「人に物事を説明するときに論理的に説明する力がつくから」等と都合よく答えている。

大学が理工系出身であったため塾で数学を教えることとなったが
社会において未だに受験数学の必要性はさほど感じない。
むしろ、受験数学なんていらないとさえ思っている。
数学をどうしてもやりたければ、やりたい奴だけが大学に入っておおいに勉強すれば良いと思う。

保険率の計算や、技術的な側面を持つ一部の職種に数学は必要だと思うがそれ以外の職種で数学が役に立つことがあるのだろうか。飲み会の割り勘計算に役立つとか、おつりの計算が速いとか大してうれしくも無い技しか身につかない。

受験数学の重要性ってなんだろう。

重要性がわからないまま、”受験”という理由で指導をしている自分にときどき矛盾を感じてしまう。
18歳という多感で貴重な年頃に受験数学を含め受験勉強ばかりすることは受験予備校の教師という立場にありながら、全面的には肯定できない。
世間では”百ます計算”とかいう勉強方法がもてはやされているようだが、ゲーム性を高めた、詰め込み式の受験勉強に過ぎないと私は思う。

私はよく授業で「偏差値で大学を決めるよりも、自分の本当にやりたいことを見つけて、その目標に近づける大学・学部に向かって勉強しなさい。」と偉そうなことを言っている。
さすがに立場上、無意味に大学に進むなとは思ってても言えない。

私も浪人を経験し、少しは受験勉強をした身ではある。
そのお陰で大学にも合格し、今の社会的立場がある。
自己の受験勉強すべてが間違いだったとは思わないが、受験勉強のお陰で心から良かったと思うことはそれほどない。
むしろ、自分と他人を比較し、人の頭の悪さを見つけ、知識の弱点を探す悪しき癖を身につけてきたように思う。
それで、自己存在の肯定、生きていく安心感を養ってきたという現実を少なからず否定できない。

最近読んだ本によると、一部上場企業の創業者はほとんどが有名大学を卒業していない人だそうである。

受験勉強の重要性よりも、夢を持って生きること、人の役に立つことの重要性をこれからは大切にして生きていきたい。

裁判傍聴

2004年5月21日
東京地裁に裁判傍聴に行って来た。
始めて会って、もう2度と会うことはないだろう人間の裁判という人生の分かれ道に、ほんの一瞬だけど重要なひと時に立ち会えたかと思うと、何か他人事ではない気がしてしまった。
妙に判決日が気になってしまい、あの人はどうなるのだろうと帰り道もふと考えてしまった。
自分は幸いにも刑事事件で起訴された経験はまだないが、犯罪とはやっぱり自分も犯してしまう可能性があるし、身近にあるものだとつくづく思った。

「途中でやめることはできなかったのか」という裁判官から被告への質問に、被告は「できなかったし、無理だった」と答えていた。社会的に見て犯罪者かどうかの違いは、その一線を越えるか越えないかである。
人を殺しちゃいけない、傷つけてはいけないと思っていても、仮に自分の家族が目の前で残虐に殺されるのを目のあたりにしたら自分は犯人に対して黙って怒りを抑えることが出来るだろうか。
復讐の怒りの中で、一線を越えるか越えないかの判断をする余裕は自分は果たして持っているだろうか。
他人に「落ち着いて考えればどうにかなる...」なんて本当は気安くいえないのに結構色々な場面で使ってたりしてしまう自分と裁判官を勝手に重ねてしまった。

法律上訴追されるような犯罪を犯して無くても、やっぱり他人事として犯罪者を見てる限り、この問題の答えは自分にはその場面に出くわさないと本当の意味では出ないのだろうか。

3週間後に傍聴した裁判の判決が出る。
被告には、どういう結果が言い渡されるのだろうか。

出発

2004年5月21日
今まで考えてきたこと、今考えていること、日常感じたことなどを素直に表現していこうと思う。
そうすることで自分を客観的に見つめ、また新たな出会いや
アドバイスを得られる機会を広げていければいいなと思う。

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