「そういえば...」
2004年7月2日熱にうなされながら、ボーっとストレスとファジィ理論
の共通性について考えていた。
こんなことを考えるとは、私は熱に完全に侵されている。
「ファジイ」という言葉が流行ったのは今から10年ほど
前だろうか。ファジイ洗濯機、ファジイ炊飯器、ファジイ
冷蔵庫、何でも家電にファジィという名前がつけられて
いた気がする。
今はどうだろうか。ファジイという言葉すら見つからない。
あの頃、ファジイ=「おまかせ」「自動」というイメージ
が定着していたように思うが、それは消費者からの一方的な
イメージに過ぎない。まったく自動ではない。すべて人間の
制御である。
単なる炊飯器においてもその制御プログラムとなると
メートルにして25メートル程プログラミングをしないと
いけないのだとNHKで放送していたことがある。
プログラミングを経験したことのある私としては
「何万行のプログラムを書かないといけないのだろう。」
という思いと同時に「何がファジイだ?全部人間の
制御じゃないか。何一つ自動じゃないよな。」という思いが
つのってしまう。
つまり、ファジイ=なんでも自動で大丈夫
という式が間違っているということである。
10年前はファジィという言葉をありがたい、ワイルドカード
のように使っていたのではのいかと思う。
現代はどうだろうか。
私はストレスという言葉がファジィに代わるもので
あると思う。
病院に行っても原因がよくわからないとすべて「ストレス
ですね。」等という言葉で片付けられる。
きわめて意味が曖昧である。
またストレスの無い人間などいないから、ある程度納得
してしまうところにその適当さの怖さがある。
現代社会においては、「ストレス」という言葉がワイルド
カードの役目を果たしている。
10年ほど前のファジィという言葉と同様に。
複雑化した社会はストレスが溜まり易いとよく言われる。
果たしてそうだろうか。
伝統的な村社会から抜け出し、個の利益、欲望を追求した
結果が今の社会では無いのか。
他人とのつながりを出来る限り排除した結果、”個”の
つもりが”弧”となってしまったのではないのか。
そうだ、こういうよく分からないときにはいい理論が
あったはずだ。
”複雑系...”と呼ばれるものが..。
あれもいったいなんだったのだろう。
の共通性について考えていた。
こんなことを考えるとは、私は熱に完全に侵されている。
「ファジイ」という言葉が流行ったのは今から10年ほど
前だろうか。ファジイ洗濯機、ファジイ炊飯器、ファジイ
冷蔵庫、何でも家電にファジィという名前がつけられて
いた気がする。
今はどうだろうか。ファジイという言葉すら見つからない。
あの頃、ファジイ=「おまかせ」「自動」というイメージ
が定着していたように思うが、それは消費者からの一方的な
イメージに過ぎない。まったく自動ではない。すべて人間の
制御である。
単なる炊飯器においてもその制御プログラムとなると
メートルにして25メートル程プログラミングをしないと
いけないのだとNHKで放送していたことがある。
プログラミングを経験したことのある私としては
「何万行のプログラムを書かないといけないのだろう。」
という思いと同時に「何がファジイだ?全部人間の
制御じゃないか。何一つ自動じゃないよな。」という思いが
つのってしまう。
つまり、ファジイ=なんでも自動で大丈夫
という式が間違っているということである。
10年前はファジィという言葉をありがたい、ワイルドカード
のように使っていたのではのいかと思う。
現代はどうだろうか。
私はストレスという言葉がファジィに代わるもので
あると思う。
病院に行っても原因がよくわからないとすべて「ストレス
ですね。」等という言葉で片付けられる。
きわめて意味が曖昧である。
またストレスの無い人間などいないから、ある程度納得
してしまうところにその適当さの怖さがある。
現代社会においては、「ストレス」という言葉がワイルド
カードの役目を果たしている。
10年ほど前のファジィという言葉と同様に。
複雑化した社会はストレスが溜まり易いとよく言われる。
果たしてそうだろうか。
伝統的な村社会から抜け出し、個の利益、欲望を追求した
結果が今の社会では無いのか。
他人とのつながりを出来る限り排除した結果、”個”の
つもりが”弧”となってしまったのではないのか。
そうだ、こういうよく分からないときにはいい理論が
あったはずだ。
”複雑系...”と呼ばれるものが..。
あれもいったいなんだったのだろう。
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