「夏の終わりに」
2004年9月22日もう夏も終わりだというのに東京では30度を超す日々が
続いている。長袖を着るとじんわりと汗がにじんでくる。
9月中旬だというのにこの陽気である。
ニュースでは昨年の冷夏と対照的に「異常気象だ。」
と報道されている。毎年異常気象?と言わんばかりの
雰囲気である。
天気ほど異常と呼ぶにはふさわしくないかもしれないが
私はすこし変だなぁとおもう事がある。
それは日本におけるサラリーマンの真夏のスーツ着用
についてである。
日本の企業、特に営業や企画の部署では真夏だと
いうのにスーツ着用が暗黙の了解となっている。
もちろん半そで可能とする企業や服装自体を全て
自由とする企業が出てきているのは知っているが
未だに根強くスーツ着用の習慣があることには
驚かざるを得ない。
アルバイト先の以前某TV局に勤めていた上司も
こういう。
「どんな真夏日だろうが、半そでを着たことがない。
長袖のシャツにスーツ着用だった。」
と。
高度経済成長時代の回顧録を私は聞きたいわけでは
ない。今は21世紀だ。
インターネットが発明され、情報共有の効率化が
図られ、グローバル化が進んでいる今日である。
企業にとっては、効率を少しでもあげ、生産性を
拡大しなければ他の国の企業に買収されて
いく運命にあるのだ。
金融業界を見れば、日本企業の過去の経営方法
が如何に間違いだったかよくわかる。
私は長袖にスーツ着用という習慣が日本を象徴して
いるように感じてしまうのである。
本音と建前ではないが、スーツ着用に何の意味が
今の時代あるだろうか。
「いやいや、やはり見た目の印象ですよ。」とか
「礼儀が半そでではちょっと...。」と言われるかも
しれない。
しかし私はそうは思わない。
「そんなことをやってるのは日本だけですよ。」
といってあげたいくらいだ。
本当の意味での効率化や社員の生産性を考える
ならば、服装が仕事に及ぼす影響を調査し、エアコン
の温度設定にまで配慮したほうがよいのではないか
と思う。少なくとも私ならそうする。
私たちは時代とともに変わっていく運命にある。
変わらない・正しいと思っているのは自分の経験
に因る幻想に過ぎない。
そろそろ季節は夏から秋へと変わろうとしている。
私はこの夏、少しは変われただろうか。
続いている。長袖を着るとじんわりと汗がにじんでくる。
9月中旬だというのにこの陽気である。
ニュースでは昨年の冷夏と対照的に「異常気象だ。」
と報道されている。毎年異常気象?と言わんばかりの
雰囲気である。
天気ほど異常と呼ぶにはふさわしくないかもしれないが
私はすこし変だなぁとおもう事がある。
それは日本におけるサラリーマンの真夏のスーツ着用
についてである。
日本の企業、特に営業や企画の部署では真夏だと
いうのにスーツ着用が暗黙の了解となっている。
もちろん半そで可能とする企業や服装自体を全て
自由とする企業が出てきているのは知っているが
未だに根強くスーツ着用の習慣があることには
驚かざるを得ない。
アルバイト先の以前某TV局に勤めていた上司も
こういう。
「どんな真夏日だろうが、半そでを着たことがない。
長袖のシャツにスーツ着用だった。」
と。
高度経済成長時代の回顧録を私は聞きたいわけでは
ない。今は21世紀だ。
インターネットが発明され、情報共有の効率化が
図られ、グローバル化が進んでいる今日である。
企業にとっては、効率を少しでもあげ、生産性を
拡大しなければ他の国の企業に買収されて
いく運命にあるのだ。
金融業界を見れば、日本企業の過去の経営方法
が如何に間違いだったかよくわかる。
私は長袖にスーツ着用という習慣が日本を象徴して
いるように感じてしまうのである。
本音と建前ではないが、スーツ着用に何の意味が
今の時代あるだろうか。
「いやいや、やはり見た目の印象ですよ。」とか
「礼儀が半そでではちょっと...。」と言われるかも
しれない。
しかし私はそうは思わない。
「そんなことをやってるのは日本だけですよ。」
といってあげたいくらいだ。
本当の意味での効率化や社員の生産性を考える
ならば、服装が仕事に及ぼす影響を調査し、エアコン
の温度設定にまで配慮したほうがよいのではないか
と思う。少なくとも私ならそうする。
私たちは時代とともに変わっていく運命にある。
変わらない・正しいと思っているのは自分の経験
に因る幻想に過ぎない。
そろそろ季節は夏から秋へと変わろうとしている。
私はこの夏、少しは変われただろうか。
9月18日の日記
2004年9月18日自転車のヘッドライトの具合がよくないのでいい機会だと思い
ヘッドライトの交換をした。
自転車の普段の使用時間は1日大体1時間弱で
朝と夜である。
夜は道路交通法にも定められているとおりヘッドライトの
点灯が義務付けられている。
私の自転車のヘッドライトはヘッドライト自体を支えている
ねじの調子が悪く、振動を与えるとすごい音を発してしまう。
お陰である程度段差がある所を通ってしまうと、ねじが所定の
移置からずれてものすごい音を発する。
嘘だろうと思われるかもしれないが、ほんとに驚いてしまう
程の音だ。
音の大きさで電灯をつけていないよりも他人に
迷惑を与えてしまうのではないかと思ってしまう程
すごいのだ。
修理に出してもいいのだが、いっそのことライトを
新しくして、既存のヘッドライトを使わないようにすれば
”すごい音”から解放されると考え、以下のライト
を購入した。
http://www.cateye.co.jp/cateye/hlhtml/el120.html
電池寿命も340時間と長いし、何しろ漕ぐときの摩擦
がないため楽である。
普通の自転車のヘッドライトはフィラメント式の
電球を利用しているが、このモデルはLEDを利用して
おり、まず電球が切れることがない。
技術革新に感謝である。
それに簡単に着脱が可能で、犬と散歩するときなどに
も懐中電灯代わりになって便利である。
購入後意気揚々と犬と散歩に出かけたのはよいのだが
ふと気づいたら私の家の周辺はすべて電灯で夜も照らされて
おり、全く歩くには支障がない位明るいことに気づいてしまった。
普段は明るくないと防犯上危険なのでありがたく感じる
電灯も今日ばかりはなんとも悩ましく感じる日であった。
ヘッドライトの交換をした。
自転車の普段の使用時間は1日大体1時間弱で
朝と夜である。
夜は道路交通法にも定められているとおりヘッドライトの
点灯が義務付けられている。
私の自転車のヘッドライトはヘッドライト自体を支えている
ねじの調子が悪く、振動を与えるとすごい音を発してしまう。
お陰である程度段差がある所を通ってしまうと、ねじが所定の
移置からずれてものすごい音を発する。
嘘だろうと思われるかもしれないが、ほんとに驚いてしまう
程の音だ。
音の大きさで電灯をつけていないよりも他人に
迷惑を与えてしまうのではないかと思ってしまう程
すごいのだ。
修理に出してもいいのだが、いっそのことライトを
新しくして、既存のヘッドライトを使わないようにすれば
”すごい音”から解放されると考え、以下のライト
を購入した。
http://www.cateye.co.jp/cateye/hlhtml/el120.html
電池寿命も340時間と長いし、何しろ漕ぐときの摩擦
がないため楽である。
普通の自転車のヘッドライトはフィラメント式の
電球を利用しているが、このモデルはLEDを利用して
おり、まず電球が切れることがない。
技術革新に感謝である。
それに簡単に着脱が可能で、犬と散歩するときなどに
も懐中電灯代わりになって便利である。
購入後意気揚々と犬と散歩に出かけたのはよいのだが
ふと気づいたら私の家の周辺はすべて電灯で夜も照らされて
おり、全く歩くには支障がない位明るいことに気づいてしまった。
普段は明るくないと防犯上危険なのでありがたく感じる
電灯も今日ばかりはなんとも悩ましく感じる日であった。
「ミステリアス・シング」
2004年9月13日今日は塾の生徒の試験監督の日だった。
私が試験監督に入ることは年に1度あるかないかの
ことなのだが、人数が足りないせいもあり試験監督を
することとなった。
無事に勤務地に到着し、試験監督を順調に
勤め、休憩をしていたときであった。
他の試験監督の教師と雑談をしていたのだが
そこで不思議なことが起きた。
そのときいた教師は三人いたのだが、その中の
教師の一人は副業が占い師ということらしく
占いの話で場が盛り上がっていた。
(試験監督日までその教師のことは全く知らなかったのだが...)
そこでタイミングよく私は胃腸が弱いのだということを
気軽に相談してみた。
「胃腸が弱っているのはどうすればいいですかねぇ。」と。
するとその教師は、こういうのだ。
「○○○の漢方がいいですよ。ほら奥さんも言ってますよ。
今言ったの聞こえました?」と。
私は正直驚いた。
妻が現場にいることなどありえない上に、数日前妻に体を
健康にするにはどうすればいいかという相談をしていた結果
妻がいろいろ考えた挙句出した答えが
「○○(私の名前)には漢方がいいんじゃない。」という話
をしていたからなのだ。
病院や、整体、カイロ、運動...さまざまな選択があるなかで
漢方を選んだのだ。
客観的事実として確率的に偶然と捕らえるのはさほど難しい話では
ないのだが、ある種自分がこういう経験を持つと不思議と
「気の発見」という本ではないが、なにか見えない世界への
一歩を踏み出しているという実感を抱かざるを得ない。
その教師は近日塾の仕事を辞め占い師として
独立する予定なのだそうだが、いやはや初対面でそういう
話になるとなんとも言えない距離感を覚えてしまう。
ちなみに、その教師は2歳から子供の霊が見えるそうだ。
だから塾内で全く霊感のない教師が子供の霊が
目の前にいるのに気づかない様子を見て笑って
しまうのだそうだ。なんで気づかないかなーと。
東京には一般に見えないものが見える人間が結構いるようだ。
私は理系出身ということもあって、比較的猜疑的で
実証主義者なのだが、あまりにもここ半年そういう
偶然の一致や私しか知らないことを言い当てる人間と
無意識に多く接触するようになり、否応でもその世界を認識
せざるを得ない。
宗教やセールスではないから、私にとっては価値観や
世界観が広がり非常にありがたい話である。
話を元に戻そう。
偶然の一致はそれだけではない、お昼ご飯を
食べに行く話をしていた時私は「Aのお店に行こう。」
と話したのだが、その教師は「Aのお店はだめです。Bにしたほうがいいです。」
と言うのだ。その店は、私が妻と食事に出かけるとき私の選択を断り、
妻がよく選択する店である。
始めて会った人間が、AよりBの方がいいという勧めをし、
その店が妻がよく私の選択を断り、妻自らが選ぶ店だということを
勘案すると確率論では何か解釈できそうもない。
私は前にも書いたようにどんなことであれ「真理」に一歩でも近づきたいから
主観をできるかぎり排除し、客観的に物事を考えてみるが
今回も不思議としかいいようがない。非常にミステリアスだ。
妻は霊が見えたりするわけではないが、そういう世界の人間から
直観力が非常に優れていると言われたことがある。
占いや本を読まなくても自然と直観力でどうやら結果的に
ベストチョイスをしているようだ。
またその教師は私を見てこう言った。
(私が大学で何を専攻をしたか知らない状態で)
「○○先生(私)は西洋的思考に傾いた考えの持ち主だから、
東洋の思想の勉強をもっとすればまた新たな道が開けますよ」と。
確かに、物理学や数学などは西洋の産物である。
それに、今までの私はその勉強ばかりしてきた。
物事を考えるにも理由を探し、論理的思考能力ばかり
鍛えてきた。
あまり東洋的な思考や直観力や鍛錬していなかったように思う。
現に、受験に関係ないという理由で、ほとんど東洋の勉強
(チベット仏教や日本の宗教の歴史等)をしてこなかったから
今回がちょうどいい機会になりそうである。
そこで、その勉強にお勧めの本を聞いた見たのだが、
またそこで驚いた。
妻が先日買おうとしていた本を推薦されたのだ。
妻は占い師でもないし、東洋思想の勉強家でもない。
にもかかわらず、どこからかその本を見つけ買いたいと
言ってきた。それに、この教師の推薦といい...。どういうことだ。
妻とその教師など面識などないし、
同じ学問をしてきたわけではない。関連性などまずない。
以前、ぜんぜん関連性のない人間から同じこと3回言われたら
それは見えない世界からのアドバイスだと言われたことが
あるが、こういうことを言うのだろうか。
全くもって不思議である。
まだ他にも偶然の一致と思わざるを得ない事実は
本当はたくさんあるのだが今回はここまでにしておく。
振り返るとそもそも試験監督などやる予定ではなかったし、
希望とは違う配置となった上に、こういう出会いがあることを
考えると本当に人生とは不思議で面白いものだとつくづく
思わされる。
ある本には、「自分で具体的な答えを投げかけたとき、
かならず答えは何かしらの形で返ってくる」と書いてあった。
私が「真理」が欲しいと欲しているからここ最近そういう
出会いがあるのだろうか。
その試験監督のバイトの帰り、その教師は
「こっちの世界の仕事も出来ますよ。」と私に残した。
高校時代、名前の漢字から出会ったこともない人
の性格を言い当てるゲームをし、かなりの確立で
当てていた記憶をふと思い出したが果たして私は
将来どのようになっているのだろうか。
私が試験監督に入ることは年に1度あるかないかの
ことなのだが、人数が足りないせいもあり試験監督を
することとなった。
無事に勤務地に到着し、試験監督を順調に
勤め、休憩をしていたときであった。
他の試験監督の教師と雑談をしていたのだが
そこで不思議なことが起きた。
そのときいた教師は三人いたのだが、その中の
教師の一人は副業が占い師ということらしく
占いの話で場が盛り上がっていた。
(試験監督日までその教師のことは全く知らなかったのだが...)
そこでタイミングよく私は胃腸が弱いのだということを
気軽に相談してみた。
「胃腸が弱っているのはどうすればいいですかねぇ。」と。
するとその教師は、こういうのだ。
「○○○の漢方がいいですよ。ほら奥さんも言ってますよ。
今言ったの聞こえました?」と。
私は正直驚いた。
妻が現場にいることなどありえない上に、数日前妻に体を
健康にするにはどうすればいいかという相談をしていた結果
妻がいろいろ考えた挙句出した答えが
「○○(私の名前)には漢方がいいんじゃない。」という話
をしていたからなのだ。
病院や、整体、カイロ、運動...さまざまな選択があるなかで
漢方を選んだのだ。
客観的事実として確率的に偶然と捕らえるのはさほど難しい話では
ないのだが、ある種自分がこういう経験を持つと不思議と
「気の発見」という本ではないが、なにか見えない世界への
一歩を踏み出しているという実感を抱かざるを得ない。
その教師は近日塾の仕事を辞め占い師として
独立する予定なのだそうだが、いやはや初対面でそういう
話になるとなんとも言えない距離感を覚えてしまう。
ちなみに、その教師は2歳から子供の霊が見えるそうだ。
だから塾内で全く霊感のない教師が子供の霊が
目の前にいるのに気づかない様子を見て笑って
しまうのだそうだ。なんで気づかないかなーと。
東京には一般に見えないものが見える人間が結構いるようだ。
私は理系出身ということもあって、比較的猜疑的で
実証主義者なのだが、あまりにもここ半年そういう
偶然の一致や私しか知らないことを言い当てる人間と
無意識に多く接触するようになり、否応でもその世界を認識
せざるを得ない。
宗教やセールスではないから、私にとっては価値観や
世界観が広がり非常にありがたい話である。
話を元に戻そう。
偶然の一致はそれだけではない、お昼ご飯を
食べに行く話をしていた時私は「Aのお店に行こう。」
と話したのだが、その教師は「Aのお店はだめです。Bにしたほうがいいです。」
と言うのだ。その店は、私が妻と食事に出かけるとき私の選択を断り、
妻がよく選択する店である。
始めて会った人間が、AよりBの方がいいという勧めをし、
その店が妻がよく私の選択を断り、妻自らが選ぶ店だということを
勘案すると確率論では何か解釈できそうもない。
私は前にも書いたようにどんなことであれ「真理」に一歩でも近づきたいから
主観をできるかぎり排除し、客観的に物事を考えてみるが
今回も不思議としかいいようがない。非常にミステリアスだ。
妻は霊が見えたりするわけではないが、そういう世界の人間から
直観力が非常に優れていると言われたことがある。
占いや本を読まなくても自然と直観力でどうやら結果的に
ベストチョイスをしているようだ。
またその教師は私を見てこう言った。
(私が大学で何を専攻をしたか知らない状態で)
「○○先生(私)は西洋的思考に傾いた考えの持ち主だから、
東洋の思想の勉強をもっとすればまた新たな道が開けますよ」と。
確かに、物理学や数学などは西洋の産物である。
それに、今までの私はその勉強ばかりしてきた。
物事を考えるにも理由を探し、論理的思考能力ばかり
鍛えてきた。
あまり東洋的な思考や直観力や鍛錬していなかったように思う。
現に、受験に関係ないという理由で、ほとんど東洋の勉強
(チベット仏教や日本の宗教の歴史等)をしてこなかったから
今回がちょうどいい機会になりそうである。
そこで、その勉強にお勧めの本を聞いた見たのだが、
またそこで驚いた。
妻が先日買おうとしていた本を推薦されたのだ。
妻は占い師でもないし、東洋思想の勉強家でもない。
にもかかわらず、どこからかその本を見つけ買いたいと
言ってきた。それに、この教師の推薦といい...。どういうことだ。
妻とその教師など面識などないし、
同じ学問をしてきたわけではない。関連性などまずない。
以前、ぜんぜん関連性のない人間から同じこと3回言われたら
それは見えない世界からのアドバイスだと言われたことが
あるが、こういうことを言うのだろうか。
全くもって不思議である。
まだ他にも偶然の一致と思わざるを得ない事実は
本当はたくさんあるのだが今回はここまでにしておく。
振り返るとそもそも試験監督などやる予定ではなかったし、
希望とは違う配置となった上に、こういう出会いがあることを
考えると本当に人生とは不思議で面白いものだとつくづく
思わされる。
ある本には、「自分で具体的な答えを投げかけたとき、
かならず答えは何かしらの形で返ってくる」と書いてあった。
私が「真理」が欲しいと欲しているからここ最近そういう
出会いがあるのだろうか。
その試験監督のバイトの帰り、その教師は
「こっちの世界の仕事も出来ますよ。」と私に残した。
高校時代、名前の漢字から出会ったこともない人
の性格を言い当てるゲームをし、かなりの確立で
当てていた記憶をふと思い出したが果たして私は
将来どのようになっているのだろうか。
「気の発見」
2004年9月11日五木寛之氏の「気の発見」という本がある。
ここ最近気になっていたのだが、やっと手に入れて
読んだ。五木さん独特の着眼点で気に迫り、
またその存在を著者の視点で捕らえている本である。
仏教的観点からのアプローチやヨガからのアプローチ
など示唆に富んでいる。
科学的見地からの証明というのではなく、哲学的
アプローチと呼んだほうがいいのかもしれない。
私は「気」というものについてきっとあるんだろうけど、
あくまでも想像の域はこえないなぁと思っている。
誰もが確認できる気があったら一番いいなぁと思う。
気というものを見たり感じられたりすれば本気で
信じるのだろうが、やはり自分の中ではなにか
目に見えないエネルギーとしてしか受け入れる
にとどまっている。
本当は、エネルギーという概念自体も間違っているのかも
知れないが...。
東洋では気という概念が日常に組み込まれているが
西洋では気という概念はないらしい。
プラーナとかそういう言葉で置き換えられるようだ。
本の中では江戸時代にすでに気という概念が考え
られているということも紹介されていたが、
考えてみれば日本には気という文字を使った言葉が
たくさんある。元気、気配、気にする、根気...。数えきれば
きりがない。古代の人は気というものをきちんと概念として
捕らえ認識して使用していたのだろうか。
なかなか気という歴史を考えるだけでも奥が深そうである。
中国では国家プロジェクトとして気というものを
研究しているようであるが、果たして解明される
日は来るのであろうか。
私は、いつかは来るだろうし、来てほしいと思う。
かの万有引力を発見したニュートンはこう言っている。
「大海原を前にして私は砂浜で貝殻を集めているような
ものだ。」と。
確かに、人類の発見した科学はまだまだ初歩的なものであろうと
思う。しかし、それが人間の知というものであり、進歩であると
私は考える。
知らなくても生きていけることはできるが、私は知れたのに
知らずに生きていくことはもったいないと思う。
著者は、文学的見地からの意見からか「気」という
ものに対し、科学的メスを入れることをあまり期待しない
ようであるが、私は大いに期待したい。
なぜなら、「気」というものが解明されれば、体に負担を負う
西洋医学を用いない未来が来るかもしれないではないか。
切らずに、薬も使わずに体が治る世界。
そういう未来もあっていいんじゃないだろうか。
ここ最近気になっていたのだが、やっと手に入れて
読んだ。五木さん独特の着眼点で気に迫り、
またその存在を著者の視点で捕らえている本である。
仏教的観点からのアプローチやヨガからのアプローチ
など示唆に富んでいる。
科学的見地からの証明というのではなく、哲学的
アプローチと呼んだほうがいいのかもしれない。
私は「気」というものについてきっとあるんだろうけど、
あくまでも想像の域はこえないなぁと思っている。
誰もが確認できる気があったら一番いいなぁと思う。
気というものを見たり感じられたりすれば本気で
信じるのだろうが、やはり自分の中ではなにか
目に見えないエネルギーとしてしか受け入れる
にとどまっている。
本当は、エネルギーという概念自体も間違っているのかも
知れないが...。
東洋では気という概念が日常に組み込まれているが
西洋では気という概念はないらしい。
プラーナとかそういう言葉で置き換えられるようだ。
本の中では江戸時代にすでに気という概念が考え
られているということも紹介されていたが、
考えてみれば日本には気という文字を使った言葉が
たくさんある。元気、気配、気にする、根気...。数えきれば
きりがない。古代の人は気というものをきちんと概念として
捕らえ認識して使用していたのだろうか。
なかなか気という歴史を考えるだけでも奥が深そうである。
中国では国家プロジェクトとして気というものを
研究しているようであるが、果たして解明される
日は来るのであろうか。
私は、いつかは来るだろうし、来てほしいと思う。
かの万有引力を発見したニュートンはこう言っている。
「大海原を前にして私は砂浜で貝殻を集めているような
ものだ。」と。
確かに、人類の発見した科学はまだまだ初歩的なものであろうと
思う。しかし、それが人間の知というものであり、進歩であると
私は考える。
知らなくても生きていけることはできるが、私は知れたのに
知らずに生きていくことはもったいないと思う。
著者は、文学的見地からの意見からか「気」という
ものに対し、科学的メスを入れることをあまり期待しない
ようであるが、私は大いに期待したい。
なぜなら、「気」というものが解明されれば、体に負担を負う
西洋医学を用いない未来が来るかもしれないではないか。
切らずに、薬も使わずに体が治る世界。
そういう未来もあっていいんじゃないだろうか。
「ぺろーん」
2004年9月10日ひさびさのやけどだ。
場所は運悪く、胸。
どうしてこんなところをやけどしたかというと
熱々の沸騰したてのお茶をコップに入れ
ニュースでも見て一息つこうと座ろうと
したときに誤って、服の上から胸に
こぼしてしまったのだ。
服を着てるものだから熱いと
感じてもなかなか対処しようがない。
急いで服を脱いだが、もう手遅れだった。
さすが沸騰した直後のお茶だけあって
皮膚への破壊力も抜群だ。
お陰で、1日たった今日赤くはれて
皮がペローんと数センチむけてしまった。
たいしたことはなさそうだが、
お風呂は遠慮したほうがよさそうだ。
むけたところからばい菌が入っても困る。
傷口の痛みよりも、体のにおいや
清潔さのほうが気になるのは大人に
なったせいだろうか。
それに、年々傷口の治りの悪さが気に
なるようになってきたのも年を重ねている
証拠か。
しかしながら、こういう小さな傷のお陰で
日ごろの健康のありがたさ、日常の
生活の利便性が感じられるものである。
大事に至らないようであればたまには
怪我をしてみるのも日ごろのありがたさ
を理解できていいかもしれない。
ロシアのようにいつ何時事件に
巻き込まれ命が奪われるかもしれない
社会と日本のボケにも似た平和な社会。
テロや宗教戦争を他人事と捕らえて
しまうこの社会と平和はいつまで続くのだろう。
場所は運悪く、胸。
どうしてこんなところをやけどしたかというと
熱々の沸騰したてのお茶をコップに入れ
ニュースでも見て一息つこうと座ろうと
したときに誤って、服の上から胸に
こぼしてしまったのだ。
服を着てるものだから熱いと
感じてもなかなか対処しようがない。
急いで服を脱いだが、もう手遅れだった。
さすが沸騰した直後のお茶だけあって
皮膚への破壊力も抜群だ。
お陰で、1日たった今日赤くはれて
皮がペローんと数センチむけてしまった。
たいしたことはなさそうだが、
お風呂は遠慮したほうがよさそうだ。
むけたところからばい菌が入っても困る。
傷口の痛みよりも、体のにおいや
清潔さのほうが気になるのは大人に
なったせいだろうか。
それに、年々傷口の治りの悪さが気に
なるようになってきたのも年を重ねている
証拠か。
しかしながら、こういう小さな傷のお陰で
日ごろの健康のありがたさ、日常の
生活の利便性が感じられるものである。
大事に至らないようであればたまには
怪我をしてみるのも日ごろのありがたさ
を理解できていいかもしれない。
ロシアのようにいつ何時事件に
巻き込まれ命が奪われるかもしれない
社会と日本のボケにも似た平和な社会。
テロや宗教戦争を他人事と捕らえて
しまうこの社会と平和はいつまで続くのだろう。
「受験」
2004年9月9日私の教える塾の生徒の受験が近づいている。
生徒たちの試験まで後2ヶ月だ。
お陰で講師はその直前対策に大忙しである。
生徒のうち約25%は学校の推薦枠で
自動的に合格となるが、残り75%は試験の
成績で合否が左右される。
よって、実質試験までの残り日数は75%の生徒に
向けて行われるようなものだ。
私の受け持つ生徒は約200人。
彼らの運命の一端を担っていると思うと
なんとなくプレッシャーがかかる。
不合格となっても勉強をしなくて落ちたなら
私としても幾分納得できるが、ある程度勉強を
していたはずなのに落ちた生徒をみるとなんだか
かわいそうになってくる。
特に私の教える数学で思うように点数が取れな
かったりすると、代わりに受けてあげてればなんて
いう気持ちもあったりなかったり...。
受験なんて、「時の運さ」と言葉をかけて
あげたいが、立場上なかなか言えなかったり
する。
毎年受験後合格した生徒たちは、飛ぶ鳥
あとを濁さずという言葉があるように、
きれいに塾を去っていく。今年もきっとうそうだろう。
あえなく受験に失敗した生徒は、内部進学を
あきらめ一般入試へと流れ込み、今まで経験
したことのない厳しい茨の道を歩むこととなる。
見るも無残だが、これも現実だ。真摯に受け止め
ねばなるまい。
今年は例年以上に多くの生徒が無事に合格し
大学に順調に進んでくれることを祈っているが、
結果はどうだろうか。
3ヵ月後合格発表がある。
200人の生徒の「先生、合格したよ。」の声が
聞けるといいのだが。
生徒たちの試験まで後2ヶ月だ。
お陰で講師はその直前対策に大忙しである。
生徒のうち約25%は学校の推薦枠で
自動的に合格となるが、残り75%は試験の
成績で合否が左右される。
よって、実質試験までの残り日数は75%の生徒に
向けて行われるようなものだ。
私の受け持つ生徒は約200人。
彼らの運命の一端を担っていると思うと
なんとなくプレッシャーがかかる。
不合格となっても勉強をしなくて落ちたなら
私としても幾分納得できるが、ある程度勉強を
していたはずなのに落ちた生徒をみるとなんだか
かわいそうになってくる。
特に私の教える数学で思うように点数が取れな
かったりすると、代わりに受けてあげてればなんて
いう気持ちもあったりなかったり...。
受験なんて、「時の運さ」と言葉をかけて
あげたいが、立場上なかなか言えなかったり
する。
毎年受験後合格した生徒たちは、飛ぶ鳥
あとを濁さずという言葉があるように、
きれいに塾を去っていく。今年もきっとうそうだろう。
あえなく受験に失敗した生徒は、内部進学を
あきらめ一般入試へと流れ込み、今まで経験
したことのない厳しい茨の道を歩むこととなる。
見るも無残だが、これも現実だ。真摯に受け止め
ねばなるまい。
今年は例年以上に多くの生徒が無事に合格し
大学に順調に進んでくれることを祈っているが、
結果はどうだろうか。
3ヵ月後合格発表がある。
200人の生徒の「先生、合格したよ。」の声が
聞けるといいのだが。
「絵」
2004年9月3日今日は絵を購入した。
前々から買おうと思っていたわけではないが、
ふと別の用事で立ち寄った店でたまたま
気に入った絵があったので2枚購入した。
夏アルバイトをした自分へのご褒美として
何を買おうかと迷っていたところだったので
ちょうどよい買い物となった。
私は比較的物欲があるほうではないので
本や映画など精神的な影響を与える
ものにお金を費やすことが多い。
絵を購入することはこれで2回目だが
納得して購入した。
数年前の私なら考えられない行動で
あるが、今なら絵を買うことに満足
感がある。
私の中で何が変化したかはわからない。
気持ちとして部屋に絵を飾る余裕でも
出来たのだろうか。
数ある絵をボーっと眺めていて
直感でいいなぁと思う絵を購入した。
最初作者は誰かわからなかったが
妻がピカソだということを教えてくれた。
ピカソの絵の何がいいということは
私は芸術に疎いからなんとも言葉で
的確に表現できないが、私のような
素人でも素敵と思うのだからピカソは
きっとすごい人なのだろう。
美輪明宏の本で以前絵を家に飾るように
勧めているのを読んだことがあるが、
実際飾るようになってみるとその効果が
実感できるというものだ。
高価なものでなくても雑誌の切抜きや
コピーで良いと本では書いてあったが
まさにその通りだと思う。
絵を飾ると自然と心にゆとりが出来るものだ。
このように書くと私が以前から絵のたしなみが
あったように思われるかもしれないが、
実際そうではない。
むしろ絵を飾ること、また購入することに
抵抗を持っていたほうだ。
絵を購入したがっていたのは、私でなく
妻のほうであった。
何度妻から購入の申し出があったことやら。
しかし今は逆である。
私のほうから進んで購入しようと話を
もちかけるのだ。私も結構変わったものだ。
絵を部屋に飾るようになって私が一番
変わったことはやはり心の余裕と
落ち着きを得られるようになったことである。
数学や物理ばかりを勉強し、コンピュータなどの
実務的技術的な方面ばかりに気をとられてきた私に
とって今や絵は緻密な限定された世界から心を開放
し、別世界のものの見方を提供してくれる貴重な
ものである。
ぜひ、機会があれば美術館を訪れたり
購入できる範囲の値段の絵を購入してみる
ことをお勧めする。
思った以上の心の変化が得られるかもしれない。
物はなくなれば終わりだが、心の中の
思い出や気持ちはずっとしまっておける。
そういう意味で絵はお勧めである。
前々から買おうと思っていたわけではないが、
ふと別の用事で立ち寄った店でたまたま
気に入った絵があったので2枚購入した。
夏アルバイトをした自分へのご褒美として
何を買おうかと迷っていたところだったので
ちょうどよい買い物となった。
私は比較的物欲があるほうではないので
本や映画など精神的な影響を与える
ものにお金を費やすことが多い。
絵を購入することはこれで2回目だが
納得して購入した。
数年前の私なら考えられない行動で
あるが、今なら絵を買うことに満足
感がある。
私の中で何が変化したかはわからない。
気持ちとして部屋に絵を飾る余裕でも
出来たのだろうか。
数ある絵をボーっと眺めていて
直感でいいなぁと思う絵を購入した。
最初作者は誰かわからなかったが
妻がピカソだということを教えてくれた。
ピカソの絵の何がいいということは
私は芸術に疎いからなんとも言葉で
的確に表現できないが、私のような
素人でも素敵と思うのだからピカソは
きっとすごい人なのだろう。
美輪明宏の本で以前絵を家に飾るように
勧めているのを読んだことがあるが、
実際飾るようになってみるとその効果が
実感できるというものだ。
高価なものでなくても雑誌の切抜きや
コピーで良いと本では書いてあったが
まさにその通りだと思う。
絵を飾ると自然と心にゆとりが出来るものだ。
このように書くと私が以前から絵のたしなみが
あったように思われるかもしれないが、
実際そうではない。
むしろ絵を飾ること、また購入することに
抵抗を持っていたほうだ。
絵を購入したがっていたのは、私でなく
妻のほうであった。
何度妻から購入の申し出があったことやら。
しかし今は逆である。
私のほうから進んで購入しようと話を
もちかけるのだ。私も結構変わったものだ。
絵を部屋に飾るようになって私が一番
変わったことはやはり心の余裕と
落ち着きを得られるようになったことである。
数学や物理ばかりを勉強し、コンピュータなどの
実務的技術的な方面ばかりに気をとられてきた私に
とって今や絵は緻密な限定された世界から心を開放
し、別世界のものの見方を提供してくれる貴重な
ものである。
ぜひ、機会があれば美術館を訪れたり
購入できる範囲の値段の絵を購入してみる
ことをお勧めする。
思った以上の心の変化が得られるかもしれない。
物はなくなれば終わりだが、心の中の
思い出や気持ちはずっとしまっておける。
そういう意味で絵はお勧めである。
「本質」
2004年9月1日私は、物事の本質に迫りたいという意識が強い。
当然、自分の能力や時間的制約により範囲は
限られるのだが、出来る限り本質に迫りたいと思う。
どのメディアが一番本質を捉えるのだろうかと
模索しているが、最近それは本ではないかと
思う。
直接自分が経験することが本質への近道
であることは言うまでもないが、自分の未経験
の分野の知識を得るには本がてっとりばやく
且つ効率よい。
それでいて、本質に近いのではないかと思う。
大学教育を今年で6年受けるが、結局
教授から習うことは本にも書いてある。
知識レベルにおいて対面でその教授からしか
学べないことは私はあまり無いように感じる。
6年教育を受けてそうだから、教授の
教育というレベルや、人に物事を伝えるという
能力を勘案してもほぼ事実だろうと私は実感している
が、それは私の受容能力不足のせいだろうか...。
本質を捉えるという点でテレビは物事の表面上しか
捕らえることが出来ないメディアである。
テレビ上で流れるニュースもまたしかりである。
だからいくらテレビを見ても本質レベルでの知識が
向上しないのはそのせいであろう。
ドリームインキュベータを設立した堀紘一氏は
ハーバードビジネススクールで学んだことを
一言で言うと物事の本質を捉える力だと著書で
述べている。
巷には表面上の会話、表面上の意見、表面上の学問
が氾濫している。それを基に個人個人が価値基準を
定め行動しているように思える。
私は、自分と違う学部出身の人間に良く尋ねる質問がある。
「あなたの専攻分野を一番分かりやすく説明している
本、またはお勧めの本は何ですか?」と。
この質問をすれば大体相手の勉強したレベルが
分かる。どういう回答がベストかということは
察するに難くないと思うが、予想以上に
回答が得られないものである。それは自分の知識を
内に秘めたいが為なのか、それとも単に知識不足なの
か私にはわからないが...。
話を元に戻そう、とにかく私は本質を見極めたいのである。
ここ数年は物事の本質というものをテーマに
私はさまざまなものを学んでゆきたいと思う。
私は限られた人生の中で、偽者は欲しくない。
それが、辟易するような事実であろうが。
当然、自分の能力や時間的制約により範囲は
限られるのだが、出来る限り本質に迫りたいと思う。
どのメディアが一番本質を捉えるのだろうかと
模索しているが、最近それは本ではないかと
思う。
直接自分が経験することが本質への近道
であることは言うまでもないが、自分の未経験
の分野の知識を得るには本がてっとりばやく
且つ効率よい。
それでいて、本質に近いのではないかと思う。
大学教育を今年で6年受けるが、結局
教授から習うことは本にも書いてある。
知識レベルにおいて対面でその教授からしか
学べないことは私はあまり無いように感じる。
6年教育を受けてそうだから、教授の
教育というレベルや、人に物事を伝えるという
能力を勘案してもほぼ事実だろうと私は実感している
が、それは私の受容能力不足のせいだろうか...。
本質を捉えるという点でテレビは物事の表面上しか
捕らえることが出来ないメディアである。
テレビ上で流れるニュースもまたしかりである。
だからいくらテレビを見ても本質レベルでの知識が
向上しないのはそのせいであろう。
ドリームインキュベータを設立した堀紘一氏は
ハーバードビジネススクールで学んだことを
一言で言うと物事の本質を捉える力だと著書で
述べている。
巷には表面上の会話、表面上の意見、表面上の学問
が氾濫している。それを基に個人個人が価値基準を
定め行動しているように思える。
私は、自分と違う学部出身の人間に良く尋ねる質問がある。
「あなたの専攻分野を一番分かりやすく説明している
本、またはお勧めの本は何ですか?」と。
この質問をすれば大体相手の勉強したレベルが
分かる。どういう回答がベストかということは
察するに難くないと思うが、予想以上に
回答が得られないものである。それは自分の知識を
内に秘めたいが為なのか、それとも単に知識不足なの
か私にはわからないが...。
話を元に戻そう、とにかく私は本質を見極めたいのである。
ここ数年は物事の本質というものをテーマに
私はさまざまなものを学んでゆきたいと思う。
私は限られた人生の中で、偽者は欲しくない。
それが、辟易するような事実であろうが。
「カナダ-その3」
2004年8月31日比較的都会のトロント、バンクーバーに目にした光景は
日本の都会とはやはり一風を画している。
土地があふれているということもあるのだが、
そもそも家のつくりが違う。
カナダでは地下室を持っているのが普通である。
2階建ての家であれば、実質3階建てと同じ床面積を
持つことになる。
殆どの家が半地下と呼ばれる部屋がある。
地面すれすれのところに窓があることから地下室
があることを認識できる。
地下はセントラルヒーティングのためのボイラー
設置や、冬場にワイン等の貯蔵庫として利用される
ようである。
緯度の関係で冬場地面が凍り、土地が移動する
ことを防ぐために半地下や地下室を設けること
を法律で定めているようであり、2×4や、4×4
の住宅設計が主であることがカナダの家の特徴
である。
日本とは全く異なった建築様式をしている。
都市の概観はというとロサンジェルスのように
綺麗に区画し、整列されているというほど整って
いないし、かといって日本のようにそこら辺じゅう
に家が建立されているという風でもない。
家が適度に分散し都市を形成しているという
印象を受ける。
特に都市部ではゴルフ場付の家も売られている
ようで所々家が無く極端に広い平地が残って
いたりする。
やはり何度も土地の広さには驚愕せざるを得ない。
都市部であっても東京のようにアレルギーで
悩むという人も少なそうで、空気も騒音も
穏やかである。
高速道路に騒音防止の網があまりみられないのも
特徴である。
それだけ家と道路が離れている証拠だ。
ちなみに、高速道路は原則無料である。
気になっていたコンビにはというと、観光地
や都市部にセブンイレブンが所々あったものの
それ以外では24時間やってそうな店というのは
殆ど見受けられなかった。
コンビニがあればあるでもうかるのかもしれないが
カナダでは従業員を見つける方が売り上げよりも
苦労しそうなかんじがある。
私の家の周り100Mには2件ものコンビニがあるが
どちらも賑わっている。
あればあるで、便利だがなければないで本当は
コンビニなど無くてもどうにかなるものだ。
旅行は本当に自分の生活にとって必要なものとは
なんだろうと考えるにはちょうどいい機会となる。
コンビには今や都会の生活に欠かせない
存在となっているが、果たしてそんなに必要なの
であろうか。便利さを追求した結末の、副産物
ではないのだろうか。
日本が世界で貧乏な国へと陥落したとき
その不必要性が理解できるのではないかと
私は思う。
ちなみに、カナダのセブンイレブンではおにぎりは
全く販売してなかった。
当然といえば当然だが、おにぎりがコンビニで
売られていることが日常と化しているからどうしても
外国に行ってもその錯覚は抜けきれないものだ。
日本の都会とはやはり一風を画している。
土地があふれているということもあるのだが、
そもそも家のつくりが違う。
カナダでは地下室を持っているのが普通である。
2階建ての家であれば、実質3階建てと同じ床面積を
持つことになる。
殆どの家が半地下と呼ばれる部屋がある。
地面すれすれのところに窓があることから地下室
があることを認識できる。
地下はセントラルヒーティングのためのボイラー
設置や、冬場にワイン等の貯蔵庫として利用される
ようである。
緯度の関係で冬場地面が凍り、土地が移動する
ことを防ぐために半地下や地下室を設けること
を法律で定めているようであり、2×4や、4×4
の住宅設計が主であることがカナダの家の特徴
である。
日本とは全く異なった建築様式をしている。
都市の概観はというとロサンジェルスのように
綺麗に区画し、整列されているというほど整って
いないし、かといって日本のようにそこら辺じゅう
に家が建立されているという風でもない。
家が適度に分散し都市を形成しているという
印象を受ける。
特に都市部ではゴルフ場付の家も売られている
ようで所々家が無く極端に広い平地が残って
いたりする。
やはり何度も土地の広さには驚愕せざるを得ない。
都市部であっても東京のようにアレルギーで
悩むという人も少なそうで、空気も騒音も
穏やかである。
高速道路に騒音防止の網があまりみられないのも
特徴である。
それだけ家と道路が離れている証拠だ。
ちなみに、高速道路は原則無料である。
気になっていたコンビにはというと、観光地
や都市部にセブンイレブンが所々あったものの
それ以外では24時間やってそうな店というのは
殆ど見受けられなかった。
コンビニがあればあるでもうかるのかもしれないが
カナダでは従業員を見つける方が売り上げよりも
苦労しそうなかんじがある。
私の家の周り100Mには2件ものコンビニがあるが
どちらも賑わっている。
あればあるで、便利だがなければないで本当は
コンビニなど無くてもどうにかなるものだ。
旅行は本当に自分の生活にとって必要なものとは
なんだろうと考えるにはちょうどいい機会となる。
コンビには今や都会の生活に欠かせない
存在となっているが、果たしてそんなに必要なの
であろうか。便利さを追求した結末の、副産物
ではないのだろうか。
日本が世界で貧乏な国へと陥落したとき
その不必要性が理解できるのではないかと
私は思う。
ちなみに、カナダのセブンイレブンではおにぎりは
全く販売してなかった。
当然といえば当然だが、おにぎりがコンビニで
売られていることが日常と化しているからどうしても
外国に行ってもその錯覚は抜けきれないものだ。
カナダ-2
2004年8月29日カナダではロッキー山脈やその周辺にある湖を巡った。
湖は非常に澄みきっていて、美しいの一言に尽きる。
ありきたりだが、純粋に心から思う。
湖は場所によって水の色が違うのだが、
それは理由がある。
湖には周りの山の岩が砕けた微粒子が
大量に混ざっていてその微粒子に光が
屈折して水の色を決めている。
屈折が関係するから晴れた日と曇った日では
湖の色が違う。
晴れた日は波長の長い赤の色が湖まで
届くが、曇りの日は青色の光しか湖に
届かない。これにより透き通るような水色から
暗い緑っぽい色までの湖面が表現される。
岩の微粒子と屈折により湖面の色は物理的に
簡単に説明できるのだが、そういう自然現象を
目の当たりにすると理屈抜きで神秘的で感動する。
自然は、見る者に理由なしに感動させてくれる
からすばらしい。
カナダの多くの山や湖は国立公園に指定され
保護がなされている。
人の居住区も限定されており、決められた以上の
開発は行うことが出来ない。
これにより、自然の保護が完全に留保されている。
一方でそこに移住しようとする人にとっては
不都合極まりないのだが、それだけ自然を守ろ
うとする意思があることは褒めるべきだろう。
広大な土地を所有するにもかかわらず自然を
大切にしていこうとする政府の動きはすばらしい。
一方で日本はどうなのだろう。
不法投棄や産業廃棄物に汚染された山が後を
たたない。
香川の豊島などは致命傷だ。
カナダでも当然そういうことはあるの
だろうが、日本とカナダでは残された自然の面積
が違う。
一概に自然保護といっても現実問題難しいことは
承知であるが、残された自然を効率よく保護し
次の世代に継承していく努力は必要である。
日本ではマイナスイオン発生器やら酸素吸入器
等がもてはやされているが、自然がそのまま
残っていればわざわざそういう機器を購入する
必要性はない。
カナダの山間ではでは、マイナスイオンだらけだ。
カナダの山々は高さが3000Mかそこらだが、本当は
9000M近くもあったらしい。
氷河期が終わると同時にその氷が解け
山の表面を削りどんどん高度を下げていったようで
ある。
そういう歴史を知って氷河の残る山を見ると
またまた感動もひとしおである。
氷河は地球の温度を下げる役割を果たして
いるといわれているが、もし全世界の氷河がなくなると
海面は3,4M程上昇すると考えられている。
近年の地球温暖化がよいことなのか悪いことなのか
私には本当のところ良く分からないが、理屈抜きに
氷河を見、その歴史を学ぶと美しいものをなくして
しまうことに対し、純粋に躊躇する気持ちが湧いてくる
のは私だけではあるまい。
カナダはそれだけ自然の美しさを感じられる国である。
湖は非常に澄みきっていて、美しいの一言に尽きる。
ありきたりだが、純粋に心から思う。
湖は場所によって水の色が違うのだが、
それは理由がある。
湖には周りの山の岩が砕けた微粒子が
大量に混ざっていてその微粒子に光が
屈折して水の色を決めている。
屈折が関係するから晴れた日と曇った日では
湖の色が違う。
晴れた日は波長の長い赤の色が湖まで
届くが、曇りの日は青色の光しか湖に
届かない。これにより透き通るような水色から
暗い緑っぽい色までの湖面が表現される。
岩の微粒子と屈折により湖面の色は物理的に
簡単に説明できるのだが、そういう自然現象を
目の当たりにすると理屈抜きで神秘的で感動する。
自然は、見る者に理由なしに感動させてくれる
からすばらしい。
カナダの多くの山や湖は国立公園に指定され
保護がなされている。
人の居住区も限定されており、決められた以上の
開発は行うことが出来ない。
これにより、自然の保護が完全に留保されている。
一方でそこに移住しようとする人にとっては
不都合極まりないのだが、それだけ自然を守ろ
うとする意思があることは褒めるべきだろう。
広大な土地を所有するにもかかわらず自然を
大切にしていこうとする政府の動きはすばらしい。
一方で日本はどうなのだろう。
不法投棄や産業廃棄物に汚染された山が後を
たたない。
香川の豊島などは致命傷だ。
カナダでも当然そういうことはあるの
だろうが、日本とカナダでは残された自然の面積
が違う。
一概に自然保護といっても現実問題難しいことは
承知であるが、残された自然を効率よく保護し
次の世代に継承していく努力は必要である。
日本ではマイナスイオン発生器やら酸素吸入器
等がもてはやされているが、自然がそのまま
残っていればわざわざそういう機器を購入する
必要性はない。
カナダの山間ではでは、マイナスイオンだらけだ。
カナダの山々は高さが3000Mかそこらだが、本当は
9000M近くもあったらしい。
氷河期が終わると同時にその氷が解け
山の表面を削りどんどん高度を下げていったようで
ある。
そういう歴史を知って氷河の残る山を見ると
またまた感動もひとしおである。
氷河は地球の温度を下げる役割を果たして
いるといわれているが、もし全世界の氷河がなくなると
海面は3,4M程上昇すると考えられている。
近年の地球温暖化がよいことなのか悪いことなのか
私には本当のところ良く分からないが、理屈抜きに
氷河を見、その歴史を学ぶと美しいものをなくして
しまうことに対し、純粋に躊躇する気持ちが湧いてくる
のは私だけではあるまい。
カナダはそれだけ自然の美しさを感じられる国である。
「カナダ-1」
2004年8月28日カナダの面積は日本の27倍。
それでいて人口は3100万人ときている。
外国人の受け入れも行っているが
年間17万人程度なので人口の伸びは
殆ど無いに等しい。
空港に降り立った瞬間から国土の広さ
が際立つ。
東京の込み合った景色に慣れている
私は驚愕せざるを得なかった。
カナダでは土地があふれているのだ。
私の近所に新築一戸建てを買うとすると
大体3500万程度する。
一方カナダでは3500万円も出すと(当然
場所にもよるが)豪邸が建つ。
普通の家なら1500万円もあれば十分
なんだそうだ。
一生定年までローンで苦しむか、
程ほどにローンを払って、余裕のある生活
を送るか。この差は大きい。
1家4人がバンクーバーの町で400万円
程度の収入でやっていけるのだから
ますます驚きだ。
ちなみに、カナダは最低でも所得税が30%
課せられるので400万円から税金を差し引いた
所得は察するに難くない。
これで4人が暮らしていけるのだ。
贅沢は出来なさそうだが、生活に日本のような
不自由はなさそうだ。
全く、先進国に住む人間として同じ時間を
過ごしているとは思えない。
カナダ人の労働はどうかというと
9時から17時までが基本だ。
残業などはめったにしない。
仕事も日本人のようにきっちりしてなくて
結構適当だ。従業員どうしで会話をしながら
仕事をしてたり、客を日本のように丁寧には
扱わない。
カフェなどは5時にしまるといえば、5時には
完全にしまっているということになるのだ。
4時45分くらいに入店するようなものなら
「帰ってくれ。そんなに欲しいなら明日来い。」
と言われることもあるらしい。
なんとも奇妙な国柄だ。
カナダは全体的に、産業が発達していないという
デメリットはあるらしいが日本の雰囲気というか
なにか競争でもしないといけないような
雰囲気はカナダと比べてある意味恐ろしい感じを
受ける。
お金はあっても常に生活に緊張感を持たされる国、日本
お金は無くても精神的余裕を国民が持ち合わせてる国、カナダ。
そういう分類も出来そうだ。
もちろんどういう社会環境にあろうが
気持ち次第で幸福感は感じられるだろう。
しかしながら、カナダ国民の方が国民性として
穏やかさを持ち合わせ、精神的余裕を持って生きている
と感じたことは確かである。
カナダでブランド品をもって歩いている人を
探すのは結構難しいし、ブランド店もあまり
見かけられない。一方、日本ではどこに行っても
某ブランドのモノグラム模様のバッグを見つける
ことが出来る。
高級品を買うこと自体は私は良いことだと思うが
本当の価値を理解し購入するのではなく、
他人と差別するために過剰に買いあさる日本人の
国民性がカナダと比較し私はなんとなく淋しく感じた。
やっぱり村社会から日本は抜け出せていないの
だろうか。
それでいて人口は3100万人ときている。
外国人の受け入れも行っているが
年間17万人程度なので人口の伸びは
殆ど無いに等しい。
空港に降り立った瞬間から国土の広さ
が際立つ。
東京の込み合った景色に慣れている
私は驚愕せざるを得なかった。
カナダでは土地があふれているのだ。
私の近所に新築一戸建てを買うとすると
大体3500万程度する。
一方カナダでは3500万円も出すと(当然
場所にもよるが)豪邸が建つ。
普通の家なら1500万円もあれば十分
なんだそうだ。
一生定年までローンで苦しむか、
程ほどにローンを払って、余裕のある生活
を送るか。この差は大きい。
1家4人がバンクーバーの町で400万円
程度の収入でやっていけるのだから
ますます驚きだ。
ちなみに、カナダは最低でも所得税が30%
課せられるので400万円から税金を差し引いた
所得は察するに難くない。
これで4人が暮らしていけるのだ。
贅沢は出来なさそうだが、生活に日本のような
不自由はなさそうだ。
全く、先進国に住む人間として同じ時間を
過ごしているとは思えない。
カナダ人の労働はどうかというと
9時から17時までが基本だ。
残業などはめったにしない。
仕事も日本人のようにきっちりしてなくて
結構適当だ。従業員どうしで会話をしながら
仕事をしてたり、客を日本のように丁寧には
扱わない。
カフェなどは5時にしまるといえば、5時には
完全にしまっているということになるのだ。
4時45分くらいに入店するようなものなら
「帰ってくれ。そんなに欲しいなら明日来い。」
と言われることもあるらしい。
なんとも奇妙な国柄だ。
カナダは全体的に、産業が発達していないという
デメリットはあるらしいが日本の雰囲気というか
なにか競争でもしないといけないような
雰囲気はカナダと比べてある意味恐ろしい感じを
受ける。
お金はあっても常に生活に緊張感を持たされる国、日本
お金は無くても精神的余裕を国民が持ち合わせてる国、カナダ。
そういう分類も出来そうだ。
もちろんどういう社会環境にあろうが
気持ち次第で幸福感は感じられるだろう。
しかしながら、カナダ国民の方が国民性として
穏やかさを持ち合わせ、精神的余裕を持って生きている
と感じたことは確かである。
カナダでブランド品をもって歩いている人を
探すのは結構難しいし、ブランド店もあまり
見かけられない。一方、日本ではどこに行っても
某ブランドのモノグラム模様のバッグを見つける
ことが出来る。
高級品を買うこと自体は私は良いことだと思うが
本当の価値を理解し購入するのではなく、
他人と差別するために過剰に買いあさる日本人の
国民性がカナダと比較し私はなんとなく淋しく感じた。
やっぱり村社会から日本は抜け出せていないの
だろうか。
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「Blogの変更」
2004年8月27日帰国
2004年8月27日1週間のカナダ旅行から無事に帰国した。
途中いろいろとあったが健康も害する
ことなく、順調に旅行を楽しめ無事に
帰国できとりあえずほっとしている。
途中レンタカーを借りて400KM程運転する
機会があったのだが、行き先でレンタカー
のキーを紛失するなどハプニングもあった。
しかし、それもどうにかこうにか切り抜ける
ことが出来た。本当によかった。
ここ数日は旅行中溜まった日常の用事と
疲れを取ることで時間が過ぎていくだろうが
それと共に旅行中の思い出を整理していく
時間もとりたいと思う。
カナダのトロント、ナイアガラ、カルガリー
バンフ、バンクーバーとさまざまな都市を
巡ってきたがカナダはなんといっても土地が
広くすべてが寛容である。
また人々が日本のようにせかせかせず
マイペースで生活・仕事をしているという印象
が強い。
また明日から数回に分けてカナダの思い出を
書いていこうと思うが今日はとりあえず用事を
徐々にこなしながら疲れを取ろうと思う。
今回の旅行は、自分を成長させる良い機会と
なった。
これを活かし、また今日からの生活に役立てて
行きたいと思う。
とりあえず、日本よ、ただいま。
途中いろいろとあったが健康も害する
ことなく、順調に旅行を楽しめ無事に
帰国できとりあえずほっとしている。
途中レンタカーを借りて400KM程運転する
機会があったのだが、行き先でレンタカー
のキーを紛失するなどハプニングもあった。
しかし、それもどうにかこうにか切り抜ける
ことが出来た。本当によかった。
ここ数日は旅行中溜まった日常の用事と
疲れを取ることで時間が過ぎていくだろうが
それと共に旅行中の思い出を整理していく
時間もとりたいと思う。
カナダのトロント、ナイアガラ、カルガリー
バンフ、バンクーバーとさまざまな都市を
巡ってきたがカナダはなんといっても土地が
広くすべてが寛容である。
また人々が日本のようにせかせかせず
マイペースで生活・仕事をしているという印象
が強い。
また明日から数回に分けてカナダの思い出を
書いていこうと思うが今日はとりあえず用事を
徐々にこなしながら疲れを取ろうと思う。
今回の旅行は、自分を成長させる良い機会と
なった。
これを活かし、また今日からの生活に役立てて
行きたいと思う。
とりあえず、日本よ、ただいま。
「旅行」
2004年8月19日今日からカナダ旅行に行く。
日頃のマンネリ化した頭と体をリフレッシュ
してきたいと思う。
海外旅行に行くのは、9/11の直後に
ロスに行ってからなので約3年ぶりだ。
旅行先に行っていつも思うのは、私も彼らと
同じ時間をすごしているということである。
至極当然のことなのだが、同じ時間を過ごして
いるはずなのに、こんなにも違うのだという
その差異に驚かされるのだ。
長閑な農地に住む人、都会のあわただしい喧騒の
中で住む人、スラムと呼ばれる住宅地に住む人、
全ての人が同じ時間を過ごしている。
どんな問題を抱えようが、どんな病気を抱えようが
同じ時間を過ごしている。
旅行先に行くといつもこのことを考えてしまう。
同じ時間を共有しているという認識をし、自分を
省みる為に旅行をしているのかもしれないが、
旅行に行くたびに景色や食べ物よりも、そういう
感情が私は一番記憶に残る。
カナダではどういう人に会い、どういう感情を
私は抱くのだろう。今から楽しみである。
私は東京の濁った空の下、人ごみの中で暮らす
人間である。
今回の旅行で訪れるロッキー山脈に暮らす人々は
どういう環境で暮らし、どんなことを思い生きて
いるのだろう。私より充実した毎日を送っているの
だろうか。
少なくともコンビニが半径100Mに2件もあるような
生活は送っていまい。
近代化された生活と対照的な生活がそこにあるの
だろうか。
人生という限られた時間の中で、自分と全く違う
環境や、そこで生活を送っている人間を見ること
ができる機会はあるようでそんなにない。
今回は1週間という短い期間だが、その異なる人間や
環境の本質にほんの少しでも触れられたら私の旅行は
満足のいくものになるだろう。
帰国後落ち着いたら日記をまた再開します。
みなさん、良い夏休みを。GoodLuck。
日頃のマンネリ化した頭と体をリフレッシュ
してきたいと思う。
海外旅行に行くのは、9/11の直後に
ロスに行ってからなので約3年ぶりだ。
旅行先に行っていつも思うのは、私も彼らと
同じ時間をすごしているということである。
至極当然のことなのだが、同じ時間を過ごして
いるはずなのに、こんなにも違うのだという
その差異に驚かされるのだ。
長閑な農地に住む人、都会のあわただしい喧騒の
中で住む人、スラムと呼ばれる住宅地に住む人、
全ての人が同じ時間を過ごしている。
どんな問題を抱えようが、どんな病気を抱えようが
同じ時間を過ごしている。
旅行先に行くといつもこのことを考えてしまう。
同じ時間を共有しているという認識をし、自分を
省みる為に旅行をしているのかもしれないが、
旅行に行くたびに景色や食べ物よりも、そういう
感情が私は一番記憶に残る。
カナダではどういう人に会い、どういう感情を
私は抱くのだろう。今から楽しみである。
私は東京の濁った空の下、人ごみの中で暮らす
人間である。
今回の旅行で訪れるロッキー山脈に暮らす人々は
どういう環境で暮らし、どんなことを思い生きて
いるのだろう。私より充実した毎日を送っているの
だろうか。
少なくともコンビニが半径100Mに2件もあるような
生活は送っていまい。
近代化された生活と対照的な生活がそこにあるの
だろうか。
人生という限られた時間の中で、自分と全く違う
環境や、そこで生活を送っている人間を見ること
ができる機会はあるようでそんなにない。
今回は1週間という短い期間だが、その異なる人間や
環境の本質にほんの少しでも触れられたら私の旅行は
満足のいくものになるだろう。
帰国後落ち着いたら日記をまた再開します。
みなさん、良い夏休みを。GoodLuck。
「カラオケ」
2004年8月18日私は今自宅にいるのだが、階上からガンガン
カラオケの音が聞こえて来ている。
階上には80過ぎの老人が住んでいる。
歌っているのはもちろん、演歌だ。
この曲の感じからすれば
テレサ・テンの「つぐない」
といったところだろう。
曲名が分かる自分もちょっぴり嫌だが、
そこまではっきり聞こえて来ることが一番嫌だ。
ここ数日の話なので、きっとジャパネット○○○
くらいでホームカラオケセットでも買ったのだろう。
ここ数年カラオケセットの小型化と高性能化
が図られているからに違いない。
今やマイク一本に700曲から1000曲が入って
いるから驚きだ。
音量を注意したい気持ちもあるが、後数日で
日本を離れることだし、老人ということで今は
許してあげよう。
そんなことよりも今はオリンピックと明日からの
旅行の準備に集中しないと時間がもったいない。
旅行先で、しまったということにならないよう
今からきちんと準備をしておこう。
デジタルカメラ、デジタルビデオ、35mmカメラ...
録画機器ばっかりかよ....。
撮ることに集中して、どこに行ったか忘れないよう
にしないと...。だからカメラが必要...。
って堂々巡りです。
でも、帰国してまだ聞こえてくるようだったら
ホントどうしよう...。
あ、そうか自分もカラオケセットを買って歌えば
大丈夫だ...って、そういう発想はよくないね。(-_-;)
カラオケの音が聞こえて来ている。
階上には80過ぎの老人が住んでいる。
歌っているのはもちろん、演歌だ。
この曲の感じからすれば
テレサ・テンの「つぐない」
といったところだろう。
曲名が分かる自分もちょっぴり嫌だが、
そこまではっきり聞こえて来ることが一番嫌だ。
ここ数日の話なので、きっとジャパネット○○○
くらいでホームカラオケセットでも買ったのだろう。
ここ数年カラオケセットの小型化と高性能化
が図られているからに違いない。
今やマイク一本に700曲から1000曲が入って
いるから驚きだ。
音量を注意したい気持ちもあるが、後数日で
日本を離れることだし、老人ということで今は
許してあげよう。
そんなことよりも今はオリンピックと明日からの
旅行の準備に集中しないと時間がもったいない。
旅行先で、しまったということにならないよう
今からきちんと準備をしておこう。
デジタルカメラ、デジタルビデオ、35mmカメラ...
録画機器ばっかりかよ....。
撮ることに集中して、どこに行ったか忘れないよう
にしないと...。だからカメラが必要...。
って堂々巡りです。
でも、帰国してまだ聞こえてくるようだったら
ホントどうしよう...。
あ、そうか自分もカラオケセットを買って歌えば
大丈夫だ...って、そういう発想はよくないね。(-_-;)
「寝不足」
2004年8月17日ここ数日寝不足の日々が続いている。
理由は単純だ。
オリンピックの放送が深夜に行われるから
である。
昨日の男子水泳100メートルだって2時スタート
だったし...。
連日面白い競技、選手が登場するものだから
こっちも気を抜いていられない。
ダイジェストで見るのも確かにいいが、
私はLiveでどうしても見たいのである。
リアルタイムだと感動が違うのだ。
今年の競技で私が注目しているのは
女子ソフトボールである。
普段はそういうことは無いのだが、
なんだか今年は興味が湧くのである。
競技自体よりも、人に興味がわくのだ。
宇津木監督及び選手には是非ともメダルを
とって欲しいと思う。遠い日本の狭い部屋から
陰ながら応援する。
残念ながら、強敵アメリカに今日敗れてしまい
現在の勝敗は1勝2敗。
果たして決勝トーナメントは大丈夫
なのだろうか...ってどこかの
アナウンサーみたいになってしまった...。
後10日とちょっとでオリンピックも閉幕
だし、私も日本にいないからもうここ数日
で寝不足とはお別れだ。
少々の寝不足は我慢できるが、それにしても
アナウンサーの
「もう少しでスタートです。」
は、我慢できかねるから要注意である。
昨日は「もう少しでスタートです」の
コメントから実に1時間以上も後のスタート
であった。
オリンピックじゃなきゃ苦情モノだ。
選手もアナウンサーもホント頼みますよ。
とにかく合言葉は、頑張れ、日本。
理由は単純だ。
オリンピックの放送が深夜に行われるから
である。
昨日の男子水泳100メートルだって2時スタート
だったし...。
連日面白い競技、選手が登場するものだから
こっちも気を抜いていられない。
ダイジェストで見るのも確かにいいが、
私はLiveでどうしても見たいのである。
リアルタイムだと感動が違うのだ。
今年の競技で私が注目しているのは
女子ソフトボールである。
普段はそういうことは無いのだが、
なんだか今年は興味が湧くのである。
競技自体よりも、人に興味がわくのだ。
宇津木監督及び選手には是非ともメダルを
とって欲しいと思う。遠い日本の狭い部屋から
陰ながら応援する。
残念ながら、強敵アメリカに今日敗れてしまい
現在の勝敗は1勝2敗。
果たして決勝トーナメントは大丈夫
なのだろうか...ってどこかの
アナウンサーみたいになってしまった...。
後10日とちょっとでオリンピックも閉幕
だし、私も日本にいないからもうここ数日
で寝不足とはお別れだ。
少々の寝不足は我慢できるが、それにしても
アナウンサーの
「もう少しでスタートです。」
は、我慢できかねるから要注意である。
昨日は「もう少しでスタートです」の
コメントから実に1時間以上も後のスタート
であった。
オリンピックじゃなきゃ苦情モノだ。
選手もアナウンサーもホント頼みますよ。
とにかく合言葉は、頑張れ、日本。
「税金の使い道」
2004年8月16日日本の借金は今や700兆円。
日本におぎゃーと生まれた瞬間
550万円の借金を背負うのである。
仮に銀河系の惑星一つ一つの星に借金を
肩代わりしてもらっても惑星ひとつ辺りの
負担は3000円にもなる。
国家予算は80兆円程度なのだから
こんな借金をしたら返せないことは
誰もがわかることである。
毎年歳入の不足分を国債を乱発することで
姑息にも帳尻合わせをしているが
果たしていつまで続くのか。
こうなった責任はいったい誰なのか。
よく分からないところがまた問題である。
一般市民に流れてくる情報から推測
するレベルではたかが知れていると思うが
そのレベルですら問題だと思われるのだから
上層部ではそれ以上の問題となっているに違い
ない。
税金の問題で身近な問題をあげると、区議会議員の
政務調査費がある。
私の住む練馬区では政務調査費が公開されている
のだが、その内訳がなんともひどいものだ。
調査によれば、子供のゲームボーイソフトを
買ったり、自宅の電気・水道代にあてたり、
架空の領収書を作成したりしている。
一般市民としては、怒りの感情しかわかないが
政務調査費に関しては、その使用用途以外の利用
に関しては罰則が無いため、違反をしていても
罰することは出来ない。
選挙の時の公約を是非とも思い出して欲しい
ものだ。
税金は一旦市民の手を離れると、後の利用は
議員に任せるしかない。悪用する議員を選んだ
責任はもちろん私達にあるから大したことは
いえないことも事実である。
しかし、よくよく考えてまずいなぁと
思うのは、将来のある子供に
生まれたとたん550万円もの借金を
背負わせるということがなんとも
不条理でならない。
日本におぎゃーと生まれた瞬間
550万円の借金を背負うのである。
仮に銀河系の惑星一つ一つの星に借金を
肩代わりしてもらっても惑星ひとつ辺りの
負担は3000円にもなる。
国家予算は80兆円程度なのだから
こんな借金をしたら返せないことは
誰もがわかることである。
毎年歳入の不足分を国債を乱発することで
姑息にも帳尻合わせをしているが
果たしていつまで続くのか。
こうなった責任はいったい誰なのか。
よく分からないところがまた問題である。
一般市民に流れてくる情報から推測
するレベルではたかが知れていると思うが
そのレベルですら問題だと思われるのだから
上層部ではそれ以上の問題となっているに違い
ない。
税金の問題で身近な問題をあげると、区議会議員の
政務調査費がある。
私の住む練馬区では政務調査費が公開されている
のだが、その内訳がなんともひどいものだ。
調査によれば、子供のゲームボーイソフトを
買ったり、自宅の電気・水道代にあてたり、
架空の領収書を作成したりしている。
一般市民としては、怒りの感情しかわかないが
政務調査費に関しては、その使用用途以外の利用
に関しては罰則が無いため、違反をしていても
罰することは出来ない。
選挙の時の公約を是非とも思い出して欲しい
ものだ。
税金は一旦市民の手を離れると、後の利用は
議員に任せるしかない。悪用する議員を選んだ
責任はもちろん私達にあるから大したことは
いえないことも事実である。
しかし、よくよく考えてまずいなぁと
思うのは、将来のある子供に
生まれたとたん550万円もの借金を
背負わせるということがなんとも
不条理でならない。
「脳を鍛える」
2004年8月15日立花隆著の「脳を鍛える東大講義人間の現在」
という本がある。
学生時代に一度読んだことがあるが、ふと
この本が目に留まり最近読み返した。
内容は、如何に大学時代勉強するか、
理系の知識がどれほど日本に浸透してい
ないかを述べ、上手に自分の脳を鍛える
方法を叙述した本である。
彼曰く、日本の理科教育は19世紀レベル
なのだそうだ。なんとも頭の痛い話である。
確かに、大学を卒業した人間に
「熱力学第二法則は何か?」
「エントロピー増大の法則について述べよ。」
という質問をしたとしても半数以上が意味が
分からないか、答えられないであろう。
所詮、日本の大学教育はそういうレベルなのだと
彼は言う。
(理系の専門科目でなく、文系を含めた教養
レベルの話である。)
本の中では、世界は対称性により構成されている
ということにまで言及しアインシュタインの相対性
理論まで持ち出している。
さぞかし本を読み、猛烈な努力をし知識を
積み重ねていったのだろうという彼の人柄が
浮かび上がる。
確かに日本の大学制度は、入学が難しく
卒業が簡単だという奇妙な矛盾を抱えて
いる。大学で何を学んだかよりも、
どの大学に入ったかを重視する傾向がある。
また、社会もある程度それを認め、誤った
価値基準で動いている。
民間はまだしも、国を動かす高級官僚を
見ればその実体は明らかだ。
知り合いの私大医学部生はこう言う。
「理?だからといって、一番国家医師免許試験の
合格率が高いわけでは無いんです。
むしろかなり低いんです。
それは、理?に合格したことに満足
してしまって、その先のビジョンが
無いんです。」
と。
この本が書かれたのは今から4年ほど前だが、
現状は未だ変わっていないように、私は感じる。
大学とは何か、また大学で学ぶということは
どういう意味なのか学生が本当に認識したとき
社会は変わって行くのかも知れない。
という本がある。
学生時代に一度読んだことがあるが、ふと
この本が目に留まり最近読み返した。
内容は、如何に大学時代勉強するか、
理系の知識がどれほど日本に浸透してい
ないかを述べ、上手に自分の脳を鍛える
方法を叙述した本である。
彼曰く、日本の理科教育は19世紀レベル
なのだそうだ。なんとも頭の痛い話である。
確かに、大学を卒業した人間に
「熱力学第二法則は何か?」
「エントロピー増大の法則について述べよ。」
という質問をしたとしても半数以上が意味が
分からないか、答えられないであろう。
所詮、日本の大学教育はそういうレベルなのだと
彼は言う。
(理系の専門科目でなく、文系を含めた教養
レベルの話である。)
本の中では、世界は対称性により構成されている
ということにまで言及しアインシュタインの相対性
理論まで持ち出している。
さぞかし本を読み、猛烈な努力をし知識を
積み重ねていったのだろうという彼の人柄が
浮かび上がる。
確かに日本の大学制度は、入学が難しく
卒業が簡単だという奇妙な矛盾を抱えて
いる。大学で何を学んだかよりも、
どの大学に入ったかを重視する傾向がある。
また、社会もある程度それを認め、誤った
価値基準で動いている。
民間はまだしも、国を動かす高級官僚を
見ればその実体は明らかだ。
知り合いの私大医学部生はこう言う。
「理?だからといって、一番国家医師免許試験の
合格率が高いわけでは無いんです。
むしろかなり低いんです。
それは、理?に合格したことに満足
してしまって、その先のビジョンが
無いんです。」
と。
この本が書かれたのは今から4年ほど前だが、
現状は未だ変わっていないように、私は感じる。
大学とは何か、また大学で学ぶということは
どういう意味なのか学生が本当に認識したとき
社会は変わって行くのかも知れない。